竹女ぼさま三味線をひく《野澤陽子》
「おめ(前)、ぼさまのこと書いてけ(呉)ねが。ぼさまバ書くためだったら、わ(私)の、これまでのこと、全部しゃべるから、書げ。」
市川竹女は著者に突然電話でそう告げたという。
著者の夫は佐藤貞樹氏。青森県芸術鑑賞協会の設立に係わったのち、1970年代初めから高橋竹山氏の三味線を全国に紹介することに尽力し、1980年代からはその仕事に専念。1998年の竹山氏の死去まで行動を共にし「自伝津軽三味線ひとり旅」「おらの三味線いのちの音だ」「高橋竹山に聴く」などを顕した人。
その高橋竹山よりも十六歳年下で、津軽の「ぼさま」直系の系譜をひき、門づけ芸から初めて最後まで演奏を続けた最後の一人が市川竹女であるという。
その、生涯を追うことによって津軽の「ぼさま」の世界を書き留めたのが本書だ。
市川竹女-1925(大正14年)生まれ。村で一・二番の資産家の家系に生まれながら不幸が重なり「とりあえず」のつもりで「ぼさま」の家に預けられたまま年月を経て、「ぼさま」と共に門づけ芸を覚え、ついにはこの世界で師匠となり多くの弟子を抱え、正当なる津軽のぼさま三味線を伝えた文字通り波瀾万丈の人生を送った女性である。
今でこそ「津軽三味線」と言えば独奏楽器としての地位は確固としたものだが、明治・大正、そして戦前の頃までは男盲の「ぼさま」と呼ばれる人々が、家々の門前で唄をうたったり、長い口説や祭文を唱えながらジャラン・ジャランと合いの手に入れていた伴奏楽器であったという。
後に祭礼などの場で催うされる「唄会」が興行としての「唄会」に進化し、「ぼさま」の芸が目明きの素人がやる芸能へと変わって行き、元々社会から弾き出されていた「ぼさま」達は、その世界からも弾き出されてしまう。
そして津軽三味線の三羽烏「白川軍八郎・木田林松栄・福士政勝」によって津軽じょんから節の「本貫」を演奏し伴奏楽器から独奏楽器への道が開ける。
その津軽民謡の歴史を現場にいて、共に歩んで来た市川竹女が、「ぼさま」のことを書き残して置かなくてはと、著者に訴えて生まれた本著は、津軽民謡の略史として優れたノンフィクションになっている。
その余りにも波瀾万丈な生涯は誰か手練がフィクションとして描いてくれないかなと思ったり。
長部日出男「津軽よされ節」を再読したくなったー
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